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December 26, 2011

「観客」の存在がもたらす「場」の変化〜パフォーマーへの警告

「演劇」を「演劇」としているものの重要な要素として「観客」があると思う。
そこに「観客」(=見る存在)がいることで、「演劇」は成り立つ。

それでは「観客」がいない場合どうなるか?
それは「演劇」ではなく、「演劇の練習」になる。
「演劇」の場合、「演劇の練習」を観客に見せることは断じてない。観客に見せられるであろうレベルまで磨き上げて、そして見せる。

それでは「インプロ」はどうか?
やはりそこに「観客」が必要だ。と私は思う。
「観客」がいなければ「インプロ」ではなく「インプロの練習」である。

もし観客に見せるのであれば、やはり”観客に見せられるであろうレベルまで磨き上げる”必要があると思う。「インプロ」の最大の問題は(国際レベルでなぜ「インプロ」が演劇として認められていないかという理由として)、手軽にできてしまう(ように見える)ことで、「練習」レベルを観客に見せてしまうことである。これをやっちゃうから一般の観客から「インプロは練習を見せているだけだ。演劇ではない。=人に見せるレベルではないことをやってしまっている=観客が見るしろものではない」と悪評のレベルを貼られてしまうのだ。

もちろんうち輪のメンバーだけは「楽しかった」と喜んでいるのだけれど(これも国際的に共通している)、それも呼び水になり、一般的には「インプロは観劇に耐え売らないものである」となる。

強調しておかなくてはならないのは、これは「いい」とか「悪い」というレベルの話しではなく、事象としての話しである。

たとえば、観客という第三者のためではなく、自己成長のために「応用演劇」があるように、「応用インプロ」があるとすれば、それは自己成長のための場としてありえる。あっていいと思う。
そこは、それぞれがインプロをすること自体を楽しむのが目的であり、それが客観的な観客にとって全く面白くないものでもオッケーな場である。

それは治療とも似ている。それはヒーリングである。それは成長の場である。それは解放の場であり、調整の場でもあり、何かを取り戻す作業でもあるかもしれない。

ただ、その場合に大事なことは、そこに「観客」を設定してはならないことである。
「観客」という立場が存在することで、その場はたちまち違う場になるからである。
(このあたり、レヴィナスや清水博先生の思想を引用していかなくてはならないとは思うけれど、それは後日。)

いくつか、むかし、そういう場での表現を見る機会があった。
そこで舞台に乗ってインプロしている人たちの顔は、本当に楽しんでいるようには見えなかった。むしろ苦痛に歪んでいるかのように見えた。そこには創造的なムードはなく、「やらなければ」「楽しまなければ」「これは“楽しいことなのだ”と思い込まなくては」という必死のムードだけがあった。

公演が終って、出演者におそる恐る感想を聞いた。「つらかった」という感想を聞くはめになるだろうと予想して。しかしその感想は、予想とまったく逆であった。「楽しかった!」とその人たちは言った。私が舞台で観た「苦痛そうに見える」というのは間違いだったのだろうか。それとも、表現者たちが自分の気持ちを分析できないのであろうか。「苦しい」=彼らにとっては「楽しいこと」なのだろうか? 

その本当のところは、今だ分らない。
ただ言えることは、そういって舞台に立っていた人たちのほとんどは、その後、パフォーマンスから離れてしまっていること。後日「本当は苦しかった」と振り返ることが多いということ。

「観客がいる」という場は、「観客がいない」という場とは、180度違う「場」であることを、主宰者は理解しておくべきだと思う。

でないと、傷つく人がでる。
主には、評価にさらされている本人達である。それはものしかしたら、本人達は意識上は気づかないかもしれない。ただ無意識の領域では、じわりじわりと傷を受けてしまうのではないか。
癒すための行為が、「観客」という立場のために、(大げさかもしれないけれど)殺傷行為になることもあるのではないかと思う。

”だから、慎重に行うこと。”
同じことを、キース・ジョンストンも言っている。
「場」についての関係性をまなんでいる今、私は深い意味を込めて同感である。

ただ残念なことに、キースのフォーマットをいまだ無断で無理解で拝借してしまう人たちがいるように、こういう考え方はいまだ理解されていないと感じる。

私は、そういう場が設けられたということを知るたびに、ざざざと戸惑いを感じる。
余計なお世話だけれど、そこにはまた傷つく人たちが増えるかもしれない。あの苦痛を喜びと勘違いしてしまう不幸な感情バランスが起こってしまうと危惧するから。

本当に年寄りの冷や水だと思う人がいるかもしれないし、「だから絹川は厄介だ」と、目の上のコブだと忌み嫌れてしまうかもしれないけれど、やっぱりやっぱり「インプロ公演」を主催する人たちや「インプロ」をキーに広場を作る人たちは、それをデリケートに理解してもらいたいとこころから願う。

そして、もしできるのならば(おそらく判断が難しいかもしれないけれども)、「インプロ」をキーに活動していく人たちは、その辺りを冷静に理解して「自分に起こっていること」に耳をすまし、自分を大切にする選択をしてほしいと願う。

ホント、余計なお世話なのですがね。。(苦笑)。。

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