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March 25, 2012

ランチパーティ準備。

今日は、友人数名(子供含め)がランチに遊びにくるので、朝から準備開始です。

メニュー
オントレー:生春巻き
メイン:チョリソーとイカとポテトの炒め物/カシューナッツと梨のサラダ/刺身ツナのマリネなど
デザート:シャンペンゼリーとリンゴシャーベット/子供達用にチョコレートポップ

こういう機会があると家や庭の掃除しなくてはならなくなるので、堕落な私たちとしては大事だったりします(苦笑)。

クラス増設か?

31日(土)に行うインプロのワークショップ。
定員は12名で募集したのですが、すでに20人ぐらいの応募があるため、クラス増やすかどうかの検討。

また意外にも、10代の子供たちの応募もけっこうあるみたい。なんと7歳の子供(映画出演経験ありらしい)からの応募も。プロデューサーのスクエアーから「7歳の子供が応募してきたんだけど、どうしようか?演技経験者だからいいかな?」と質問あり。私は少し考えて、結局「ノー」と返事しました。

ワークショップは参加者一人一人ができるだけ安心してオープンでいられる環境づくりが大事。もし子供がいたとしたら、それ以外の大人の参加者が安心してオープンになることが難しいんじゃないかと感じたのです。

表現というものは、常識的に正しいことだけではなく、たとえば常識的にはタブーな事柄も出てくる可能性があります。ネガティブな感情が出てくるかもしれないし。それは大事なこと。ですから、そういう表出が許される場でありたいと思っています。

決して、子供対象のワークはしない。ということではなく、ワークショップという「場」づくりには、ある程度、繊細な配慮が必要なのではと思ったのでした。

私としては「こんなにたくさんの方々に興味もってもらって、嬉しい!」と同時に、プレッシャー感じます。ホント。

友人であり演出家のベンに相談したところ、「たくさん集まって良かったじゃん!ワークショップは参加者が大人数のほうが簡単。少人数のワークのほうが疲れる。だから、そんなに心配しないで、参加者の人たちがハッピーでいられるようにすれば大丈夫だよ」と。

なるほど。

友だちの一言でずいぶん気持ちが軽くなるものです。

ふぅ〜。。。


March 23, 2012

さとなおさんの「共感」に強く「共感」

さとなおさん(シニア・クリエーティブ・ディレクター/ソリューション・ディレクター)の文章「人はわかりあえっこないからこそ、たまたまわかりあえたときに強い「共感」が起こる」に強く共感して。

タイトルのように、さとなおさんは「人は分りあえないことが大前提。だからこそ、たまたま分りあえたときに、共感がおこる」と書いています。

以下、ものすごく抜粋。

日本人が好きな格言に「自分がやられて嫌なことをヒトにするな」みたいなのがある。もっともらしく聞こえるけど、これは「自分が嫌なことと他人が嫌なことは同じである」を前提とした甘えだ。
(プチ省略)
その他人、つまり、「もともとすべてにおいて違う相手」に発信して伝えるのだから、「わかりあえない」「共感なんか起こらない」ということが前提となる。そう、わかりあえっこない。共感なんか起こりっこない。でも、だからこそ、わかりあえっこないからこそ、たまたまわかりあえたときに強い「共感」が起こる。

インプロやっている人/教えている人なんかで、「相手の気持ちを汲み取ってあげなくてはいけない」と考えたり/教えたりがいるみたいだけど、これも同じように「自分には相手の気持ちが分るはずだ」という思い込みがあるのではないか。「相手の気持ちなんか分りっこない」ということを大前提にしないと、同じ甘えが発生する。

また、さとなおさんは「自分のオリジナリティ(素の自分)を出せば出すほど強い共感を得られやすい」と書いています。これも納得。つまり、人は「これは、あなたも共感できますね。共感できるはずです。だってあなたの気持ちが私には分るんですから」的な文章はまったく共感されないということ。そしてこういう発言する人はたいがい「組織」の自分として発信していて、「個」としての自分の発信をしていない。

すごく面白いなと思ったのは、「共感とは、相手が探し出してくれるもの」という部分。つまり「共感してよ!」と強要する状態ではないところで、「共感」は生じる。「共感」は相手が自分のどこかを読み取ったときに、相手の中に起こること。

だから「肩書きとか体裁をとっぱらった”素の自分”を出せば出すほど、人はその”素の相手”に共感する部分を見いだす」のだと。

この視点から「共感」を考えた場合、芸術家はまさしくそういう存在。いかに自分をさらけ出すかがある意味勝負である。しかし考えてみると、「共感」という感覚でつながり得るのは、どの人間関係も同じこと。もしかしたら、芸術家という職業だけではなく、さまざまな職業の「大人」にこれは必要なんじゃないだろうか。

「素の自分」をいかにさらけ出せるか。
これがポイントです。

以下、さとなおさんのブログ全文です。(それ以外の文章もとてもおしろいのでお勧めです)
http://www.satonao.com/

March 22, 2012

オークランド/インプロワークショップあっという間に満員御礼

オークランドで行うインプロワークショップがあっという間に満員御礼になったそう。

まったく予想していなかったことに、嬉しい反面「うっひゃ〜!」プレッシャー!

みんなどんな期待で応募してくれたんだろう。。

ちゃんと英語で説明できるように、今から準備しなくては。。。

(汗。)

March 20, 2012

ワークショップにはコンタクトですかね。

今日は忙しい日。

これから眼鏡やさんに行って検眼。
新しいコンタクトつくろうかなと思っています。

近眼が進んで遠くがよく見えなくなってきました。加えて老眼も、、(冷や汗)。
先日、眼鏡つくったのですが、眼鏡だとワークショップのリードのとき支障があることが分りました。
自分がよく動くので、眼鏡がずれるんですね〜。まるでかつての横山やすしみたいに「めがね、めがね」となってしまいます(苦笑)。

昔はコンタクト使っていたのですが(使い捨て)、こちらは目つぶりたいときにつぶれないのがとてもストレスに。それで辞めてしまったのですが、やはりワークショップにはコンタクトのほうが安全かな。

以前、ハードコンタクト入れるのにトライして、あまりの痛さに検眼してくれたお姉さんに怒鳴ってしまった(「いたぁ〜いよ!」と)トラウマがあるので、今回はそこまで取り乱さないようにしたいと思います。どうなるかドキドキです。

****

それからプロデューサーのSquare と打ち合せ。
[Impro with Yuri]というワークショップの企画。

その後、急いで家に帰り準備ー今夜はワインセラーでパフォーマンスです。


Yurinop


March 19, 2012

翻訳開始。

今日は一日翻訳作業。

ある演技の本、翻訳することになりました。

ものすごく「合理的」な本で、神秘的/まか不可思議/表現するのが難しい「演技」というもの実に明確に表現しています。社会人の人が読んでも「なるほど〜」と思せるところのある「日常にも活かせる」本になりそう。

毎日3ページが目標。さて、自分のつくった目標、達成することができるか〜???

不安。。。

March 18, 2012

車イスミュージシャンのドリューと即興パフォーマンスの稽古。

車イスミュージシャンのドリューと稽古。

たくさんのケーブルを前に、複雑な図式が描かれている巨大なコンピューターのスクリーンを見つめているドリュー。彼は指が動かないけれど、ギブスで固定した手でキーボードを叩くことができる。私なんかより、ずっとコンピューターに詳しい。この鉄の箱の中に、彼が創った沢山の「音」が詰まっている。

申し訳ないのだが、彼を最初に見たときは、正直「ぞっ」とした。
たしか舞台の稽古場だったっけ。やせて、目が落窪んでいて、真っ白な顔を帽子で深く隠している。
車イスにのっていて、手も足も動かない様子。のどの下に穴が開いていて、そこにチューブが差し込まれている。声は出るのだろうか、言葉はしゃべれるのだろうか、どんな人なんだろう。「どうやって声かけていいか分らない」というのが最初の印象。

でもその後、だんだん彼と話すようになり、彼が即興音楽家でもあり、パフォーマンスもするということ、けっこうフレンドリーだということ、お酒飲んだりもするんだということ、彼のパフォーマンスはかなりアナーキーだということ、近所だということ、お姉さんが2人いて、とびっきり美人の彼女がいることなどをだんだん知るようになった。

今回のパフォーマンスは、長くて10分ぐらい。茶道の道具にセンサーを仕込んで、私がそれをつかって即興パフォーマンスをする。茶筒あけると政治家の演説が流れたり、茶せんをシャカシャカさせると地震の音になったり。規則と不規則、自然とテクノロジー、コントロールとアンコントロールの両方を同時に表現する試み。

私は「いつか日本でパフォーマンスやろうよ!」と言ったんだけれど、「ぼくが海外に行くのはお金がかかるからなぁ〜」と言っていた。いつか日本でのパフォーマンスが実現するといいのにな。


March 14, 2012

本当に「雑草」のような人とは。

ガーデニング。
とは名ばかりの「草取り/雑草ぬき」です。(苦笑)。
農家のおばさんがかぶるような帽子かぶり、長袖なかずぼんで長靴。
日焼けクリームたっぷり塗って、準備万端!
特に雨の後は、雑草延び放題〜!になるので、定期的に雑草ぬきしないと大変なことになります。

さて。
誰ともは話さないで、一つの作業に集中し淡々と行うことは、アクティブなメディテーションですね。雑草ぬきは或る意味「メディテーション」の作用があるんじゃないかな。

さて、雑草ぬいていていつも思うこと。
それは「雑草というだけで引っこ抜かれる」のは不公平だなぁ〜。
バラに生まれれば大事にされる、雑草だと嫌れる。人生はなんて不公平なんだろう。
雑草の運命を自分のそれと置き換えたりして、世をはかなんでいました。

しかし!
実際に雑草をぬいていて気がついたこと。
それは、現実的には、雑草は本当に強く、抜いても抜いてもはえてくるだけではなく、どんな植物にも絡まり、突き破り、強力にはびこり、最終的には他の植物を殺してしまうということ。
定期的にその草を抜かないと、その草だけが生きることになってしまうのです。
他は全滅。どうせならいろんな植物に生きて欲しい。いろんな昆虫や動物にも影響ありますもん。
ですから、雑草はやもなく抜かなくてはならないのです。

さて、目立たなくても強く生きる人のことを「雑草」と表現しますね。
私なぞは、自分は「バラ」というより「雑草だなぁ〜」と思います。

しかし、実は「雑草のような人間」とは、他を殺して自分たちだけが生き残ろうとする人たちのことかも。

だとしたら、私は雑草にはなりたくないなぁ〜。

そして、だとしたら、「雑草」と呼ばれるべき人たちは実は別にいるんじゃないか。
特に日本では、そういう人たちがしゃーしゃーと羽振りをきかせているんじゃないか。

そんなことを考え、別に「排除すべきだ」とか「抜きさるべきだ」とは思いませんが、「共存」の難しさを改めて感じました。


March 13, 2012

尊敬すること:その2(観客の設定)

プラス、(そういえば)、清水博先生が提言している「人生は即興劇」という構造の中に、「自分にとっての”観客”の存在」について述べられています。

観客がいるからこそ、自分の振る舞いが変ってくると。

その観点から考えると、自分にとっての「観客」がいったい誰であるのかということによって、自分の行動は大きく変ってくると考えられます。

だから、自分の観客の設定を間違えると、悲惨なことにもなりかねない。
たとえば:子どもの最初の観客は、おそらく「母親」。そして観客は「友だち」「社会」へと変っていく。
人間が成長するということが、そういう過程を経ることだとしたら、私たちは「観客」の設定によって、正当の度合いが変っていくのは当然のことではないか。

そういう意味では、「自分にとっての”観客の設定”は、自分の成長の度合いをも左右する大事なことだ」と言えましょう。

みなさんにとっての「観客」は誰ですか?

尊敬するということ

みなさんは、ある人に会うことで、今までの不安がいっぺんに吹き飛んだという経験ありますか。

私はつい最近そういうことがありました。
そして考えました。
「なぜ、この人に会うとこんなに元気が出て、地に足がついて、本来の自分取り戻せるんだろう」と。

最初は、”自分より優れた人に「尊敬されたから」元気が出たのかな”と考えました。しかし、なんだかそうではないようなんです。

その人と会っていた時の状況を思い返すと、その人は決して「あなたはすばらしい」的なお世辞を言っていた訳ではありませんでした。むしろ印象的だったのは、彼女のリアクションです。その人は私のクオリティをものすごく”尊重”してくれている、そういうリアクションを私の前でしてくれるんですね。私よりずっと年上で、私よりずっとずっと成功している人でありながらです。
(そういう意味で、会えること自体光栄だったし、忙しいのに会ってくれたこと自体が恐縮することだったのです)

むしろ、私が元気が出たのは、もしかしたら、彼女の「人を尊重する(人の可能性を信じる)」という”リアクションが鏡の役目をして”、私のある側面を映してくれたのではないか。私は彼女に自分を見たのではないか。自信を失い、「うらやましいなぁ〜」と思いながら他者の成功を横目で見て妬むばかりの私は、自分の別の面(可能性とも言える)を久々に見ることができたから、自信を取り戻したのではないか。ということでした。

ここから学んだことは、「私も他者の”鏡”の役目になりたい」ということ。その人のピュアな魅力や可能性を映す鏡に。

(そして、おそらく、ワークショップのファシリテーターは、そういう役目なのではないか)

それが真に「他者を尊敬すること」ではないかと。そんなことを考えました。

March 12, 2012

恩人と再会。

キャスティング・ディレクターとして国際的に活動されている奈良橋陽子さんと久々に再会。
ただいま「Emperor」というハリウッド映画の撮影のため、ニュージーランドに滞在されているのです。撮影真っ最中で、ものすご〜くお忙しいと思うのですが、私の自宅までお越しくださいました。

陽子さんとの初めての出会いは、私が20歳のとき。陽子さんが総合監督つとめたミュージカル「ピーターパン」に、私はピーターパン役で出演しました。(この時、ウエンディ役は女優の藤田朋子さん)
これは、もう20年以上前のことです〜。

そして夫との出会いのきっかけになった映画「Memory and Desire」も、そもそも陽子さんが「オーディション受けない?」と声かけてくれたこと。そして、インプロやることになったのも、そもそも陽子さんが「シアタースポーツっていうのがあって、その先生がオーストラリアからくるんだけど、ワークショップ受けない?ユリにぴったりだと思うんだけど」と声かけてくれたのがきっかけ。私の大きな節目は、陽子さんがつくってくれたようなもの。いくら感謝しても足りないくらいです。

久々の再会は、変らない陽子さんのポジティブなエネルギー。
変らずの大きな瞳、寛容の笑顔。知性と強さ。相変らずのヨーコトーク。
映画の話し、お芝居の話し、家族の話しなど、話しても話し足りない盛り上がり。

本当に嬉しい時間でした。

そして人の縁の不思議さ感じました。切れる人とはすぐ切れる。繋がる人とは切ろうとしても切れるもんじゃなくて、自然に繋がっているのだと。

映画の成功こころからお祈りしています。


March 07, 2012

センサーを使ってインプロヴィゼーション。

即興ミュージシャン(作曲家)のDrewと打ち合せ。

彼の研究プロジェクトの一環として、新しいパフォーマンスを創作しています。

アイデアとしては「私が茶道する。さまざまな道具にセンサーを仕込んで、それぞれから「音」が出るようにする」というシンプルな構造の中で、即興パフォーマンスをするというもの。「様式」(=決まり)と「様式ではないもの」(=即興)がどのような効果を見せるか。それが楽しみ。

まずは私は茶道を研究しなくてはならなくなりました。
日本にいれば、ちゃんと習うこともできるのですが、今は難しいので、DVDを見ながら研究しています。

同時に「お茶」についてちょっと調べたのですが、このトピックも深いですね。お茶自体の歴史も興味深いし、スタイルについてもイギリス流だったり、インド流だったり、中国流だったり。いろんな「お茶の入れ方」があって、それぞれ個性的。

それにしても、日本の茶道ほど「決まり事」が多いお茶会って無いですね〜。これは本当に「日本流」だなぁ〜と思います。反面、この「決まり事」をきっちり(ゆっくり)やっている時間って、in the momentつまり覚醒している状態なのですね。そういう意味では、この「決まり事」の時間の中の数秒数秒には「即興」が存在している。

そういう意味では、実に面白い習慣だと思います。

March 06, 2012

何事も、盲目的だとちょっと恐いです。

フェイスブックでのやりとり。
九州でインプロをやっている入江さんの書き込みに絹川が反応してリプライしました。
このやりとり、面白いと思う人もいるかもしれないので、ご本人の承諾得て、全文ご紹介します。

<入江さんの書き込み>
お陰様で九州インプロ交流会無事参加してまいりました。
分かったこと、手探りでもいいんだ。教える時に、完璧に教えるという通年授業や研修形式もあるが、同時にインプロ体験会+インプロ新年会のような、どこかゆるい交流、インプロのゲームの知識の断片を思い出しながらするというのもまたいいやり方だ。と感じました。つい、どれが正解か、とくに目の前のゲームの理解が私の知るものと大きく違ってきたとき、正解を伝えるべきか迷います。しかし同時に、ルールから大きく脱線した今まの前の出会いから、なにか「これはいい」もしくは「あ、これもあるんだね」というよりニュートラルな肯定の方法。この辺の微妙な使い分け、垣間見ました。
おそらく、インプロというものがもともと多様であり、教える人で力点が少しづつ違い(例えば、芝居の稽古と位置づけたり、より広いコンタクトインプロなどもくくって考える方、研修のために特化する方、小学生から豊かな目を撒く方、人生を否定したり、ひとの意見を」否定することで消耗した人を治すなど)ということのため、団体によって、さらには学んだ段階によって、違って見えるのは当然。それが大きな木の部分部分と気がつくのに私自身5年近くかかってしまいました。
また、ひとつ考え方が解れました。

<絹川のリアクション>
興味深いです!インプロはひとつのジャンルにすぎないと思うのです。「演劇」だって「文学」だって、いろいろな作品があるし「正しい/間違っている」という基準では測れない。でもインプロは歴史が浅いのと、やっている人が少ないということでその辺りが混沌としていますね。またインプロやっている人たちって(私も含め)「これがスキ!』という思いが強いので、どうしても「それ以外は違う」となりがち。逆に「自分がいいと思っている部分はちゃんと伝えていきたいし、それが違う理解になってしまうこと危惧する」という気持ちもある(私はそんなところがあります)。シアタースポーツが日本に上陸したときは、そういう風潮が強くありました。また自分の師匠のセオリーに固執しがち。そういう研究者がいてももちろんありだと思いますが、固執が「盲目的」なると、一見「教育的」には見えるかもしれないけれど(特に日本人が安心する考え方)、実践者としてはどうかな。少なくともインプロは「イエスアンド」で成り立っているので、「違う」じゃなくて、「それも、またあり」と解釈することが大事だと思っています。そういう意味で、ちょっとかけ離れてしまいますが、インプロの考え方には仏教に近いもの感じます。

***
後日あらためて考えてみて、「これはこうでなくてはならない」ということから、「いかに離れるか」というのがインプロヴィゼーションの醍醐味なのに、「こうでなくてはならない」という風にインプロしている集団や指導者がいたら、それは残念だなと感じます。(日本だけじゃありません)。

そして、そういう風習にちょっと恐怖を感じます。
その恐怖は、カルト的な閉鎖的な集団に対する恐怖と似ています。

だから、そういう物事からはできるだけ離れて生活したいなと思っています。

March 01, 2012

海外で日本語を学ぶ子供たちに私ができることと言えば。

ニュージーランドの日本語補習学校の講演会に行った。

タイトルは「オークランドでどう子ども育てるか」というタイトル。
日本人の友人がほとんどいない(3人!)私は、ひさびさに長期滞在できる間に、こちらの日本人コミュニティについて知りたいなと思ったのです。

講演自体は残念ながら「昔の子供たちはこうだった。今の子供達はこうだ。だからダメだ」とか
「私が子どものころは、先生がげんこつでなぐってくれた。だからいい。今の子どもにも、そのくらいのことはしなくてはだめだ」とか「言葉や文化うしなったら、日本人としてはダメだ」とか、”自分は間違っていない”という立場からの一方的なもので、「よくこんなことを堂々としゃべることができるなぁ〜」とちょっとあきれてしまいました。

”そういう教育でどんな日本ができたか?”
それを見れば、こんな発言はできないはずだからです。

さて、しかし。
集まっていたニュージーランド在住の父母のみなさんが、いかに子どもに日本語を教えるか(もしかしたら、いらないんじゃないか:などの危惧もありながら)に苦心されているのをひしひしと感じました。

こちらで生活する日本人の子供達は、昼間学校に通い、そこでは英語をしゃべる。そして帰ってきてから、補習校で日本語を学ぶ。でも日常で日本語を使うことがない場合、日本語や日本文化を学ぶモチベーションがないのです。両親としては、継承して欲しいという気持ちがある。しかし現実的には、とても難しいのです。

そして、「演劇活動がもしかしたら助けになるかもしれないなぁ〜」と思った。
子供たちが日本語の劇をやる。もしくは父母が日本語の劇をやってみせる。
そういうことで、もしかしたら、子どもたちの「日本」への興味も出てくるんじゃないかな。

思い立ち、補習校の先生に「ボランティアでもいいので、劇づくりやりたいのですが」と申し出た。先生は私の文脈などぜんぜん知らないので「ぽか〜ん、ああ、演劇ねぇ〜。」としていたけど。

もし可能ならば、何かお手伝いできるといいなと思いました。

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