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March 06, 2012

何事も、盲目的だとちょっと恐いです。

フェイスブックでのやりとり。
九州でインプロをやっている入江さんの書き込みに絹川が反応してリプライしました。
このやりとり、面白いと思う人もいるかもしれないので、ご本人の承諾得て、全文ご紹介します。

<入江さんの書き込み>
お陰様で九州インプロ交流会無事参加してまいりました。
分かったこと、手探りでもいいんだ。教える時に、完璧に教えるという通年授業や研修形式もあるが、同時にインプロ体験会+インプロ新年会のような、どこかゆるい交流、インプロのゲームの知識の断片を思い出しながらするというのもまたいいやり方だ。と感じました。つい、どれが正解か、とくに目の前のゲームの理解が私の知るものと大きく違ってきたとき、正解を伝えるべきか迷います。しかし同時に、ルールから大きく脱線した今まの前の出会いから、なにか「これはいい」もしくは「あ、これもあるんだね」というよりニュートラルな肯定の方法。この辺の微妙な使い分け、垣間見ました。
おそらく、インプロというものがもともと多様であり、教える人で力点が少しづつ違い(例えば、芝居の稽古と位置づけたり、より広いコンタクトインプロなどもくくって考える方、研修のために特化する方、小学生から豊かな目を撒く方、人生を否定したり、ひとの意見を」否定することで消耗した人を治すなど)ということのため、団体によって、さらには学んだ段階によって、違って見えるのは当然。それが大きな木の部分部分と気がつくのに私自身5年近くかかってしまいました。
また、ひとつ考え方が解れました。

<絹川のリアクション>
興味深いです!インプロはひとつのジャンルにすぎないと思うのです。「演劇」だって「文学」だって、いろいろな作品があるし「正しい/間違っている」という基準では測れない。でもインプロは歴史が浅いのと、やっている人が少ないということでその辺りが混沌としていますね。またインプロやっている人たちって(私も含め)「これがスキ!』という思いが強いので、どうしても「それ以外は違う」となりがち。逆に「自分がいいと思っている部分はちゃんと伝えていきたいし、それが違う理解になってしまうこと危惧する」という気持ちもある(私はそんなところがあります)。シアタースポーツが日本に上陸したときは、そういう風潮が強くありました。また自分の師匠のセオリーに固執しがち。そういう研究者がいてももちろんありだと思いますが、固執が「盲目的」なると、一見「教育的」には見えるかもしれないけれど(特に日本人が安心する考え方)、実践者としてはどうかな。少なくともインプロは「イエスアンド」で成り立っているので、「違う」じゃなくて、「それも、またあり」と解釈することが大事だと思っています。そういう意味で、ちょっとかけ離れてしまいますが、インプロの考え方には仏教に近いもの感じます。

***
後日あらためて考えてみて、「これはこうでなくてはならない」ということから、「いかに離れるか」というのがインプロヴィゼーションの醍醐味なのに、「こうでなくてはならない」という風にインプロしている集団や指導者がいたら、それは残念だなと感じます。(日本だけじゃありません)。

そして、そういう風習にちょっと恐怖を感じます。
その恐怖は、カルト的な閉鎖的な集団に対する恐怖と似ています。

だから、そういう物事からはできるだけ離れて生活したいなと思っています。

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